くろごまさんぽ

くろごまは躁うつと上手くお付き合いしたいのです。躁うつ病の日常ブログ。

不幸な経験を活かす。

うつ病者が初診に至るまでのきっかけは、家族からの病院への問い合わせからが多いと聞いた。
そりゃそうだ。
当の本人はそんな事を夢にも思わない。
自分の根性なしと責めてる最中ですからね。

私はうつ病初期の頃に主人と別居してたので、早期発見してくれる家族は居ませんでした。
初診は、自分で問い合わせて行きました。
過眠と脱力感から寝込んでいても、それが出来たあの時の自分よ、ありがとう、労うわ。

多分、それが出来たのは、病ながらの片隅に叔父の存在があったからかもしれないと思っています。
叔父は、私が子供の頃、ダム湖に身を沈めました。
職場での陰湿なイジメと、家庭内不和に板挟みにされ、気優しく弱かった叔父は自ら命を絶ちました。
子供の頃だけど、その渦中の慌ただしさは覚えています。
死の観念すら無かった当時は、ただ大変な事が起きたとしかわかりませんでした。
従姉妹の泣き顔を見て、初めて叔父が居なくなったとわからされました。

それから私は、自死にて身内を失った辛さを身に刻み続けてきた人生でした。
本当に、遺された親族は、やりきれないのです。
供養の度に暗い重い空気がのしかかる。
でも一番辛かったのは子供である従姉妹だったと思います。
親族はやがてそれから逃れるかのようにバラバラになりました。

信じられない話ですが、しばらくし、私の枕元に叔父が立ち後を頼むと苦しい顔で見つめてきたのです。
叔父はとある田舎の旧家の跡取りでした。
その重圧もあったのだろうし、それが心残りだったのかもしれません。
その夜の事は、数十年経っても忘れる事が出来ません。
(結果、私は最近、その遺志を継ぎました。
後悔はしていません)

このような背景で、私が自分自身の今までにない不調の中辛うじて動けたのは、もしかしたら叔父と同じ病気では?と当時疑えたからです。
それは、過去から得ていた知識からか、もしくは経験から周りを不幸にしたくない本能なのかもしれませんが、この時に動けていたから、叔父と同じ道を辿らずに済んだ気がします。

どん底の時には、自分で何も決められません。
動けません。
判断も出来ません。
痛いほどわかります。
私も、離婚も退職も、次の食事も着替えさえも何も決められませんでした。
それは病気なんだもん、普通の事です。

ありのままの自分を認めること。
一番難しい、はじめの一歩だと感じます。
自分のリミッターを振り切るくらい頑張ってしまったから、この病気になったから。
自分は万能じゃない。
その考えにさえ少しずつ歩み寄れれば…それが寛解へのはじめの一歩の気がします。
私は少なくとも、虚勢を張らない自分になってからは、すごく楽に生きれるようになりました。

ダメな所は沢山あるけれど、この始まりの時よりはマシ。
あの時死ななくて良かったと思えることも、時の流れの中では沢山感じられた。

だから、これを読んで頂けている方々へ。
いつもありがとうございます。
お互い、頑張らなくていいから、一緒に踏みとどまりましょう。